「Surrendered Myself to the Chair of Life」

自分は生まれ変わりも、神様の采配も、前世も、あの世もこの世も、天国も地獄も信じていない。つまり「元からこうなることが決まっていた」なんてことも信じていない。でも祖父が亡くなったあの時や、近所の猫が姿を潜め死んでいったことや、今ここでこの文章を読んで、同じ時代、時をせーので生きているという事実は覆ることのない事実。そして、俺はやっぱり母の子宮の中で「それ」を選んだ。「それを選ぶ」ということはいつかすべてが無になるということ、いつか死んでしまうということ、すべて何ひとつ価値も意味もないということを認めることであり、理解したということだ。俺はその誰もに訪れる平等極まりないその瞬間を、ああでもない、こうでもない、と「何故か」悩んだり苦しんだり嘆いたり放り出しそうになりながら迎えるのだろう。

大学三年の頃、音楽科の教師に「きみの歌のここの部分は理論的に間違えてるのよ。」と言われた。「それで?」と聴くと「間違えているからやってはいけない。」と。二年ほど前、当時付き合っていた恋人は「人のことを傷つける歌なんて、本当に正しい歌じゃない。芸術はもっと大きな手でやさしくあたたかく包み込んでくれるものなの。不快にさせる詩もメロディもやめたほうがいい。」と言っていた。「YES」と「NO」で構築された世界であの教師と元恋人は暮らしている。柔らかな日差しと、排尿効果のある紅茶と、甘さ控えめのクッキーを携えて、日傘をさして歩くのだろう。他人の「NO」はぼくの「YES」であり、ぼくの「NO」は他人の「YES」である。そして、「YES」と「NO」は時に類義語になり、「YES/NO」はやはり罪だ。

祖父も猫も教師と元恋人もぼくも多少の時間の差こそあれ、同じように終わる。それはやっぱりとてつもなく笑える。いくらがんばって理解しようとしても、し合うことのできない想像力の足らない馬鹿な俺たち。平等に公平に同じように終わるのだ。


K.K



【今日の新曲】

「ルームオーディオ」

俺は簡単にきみを捨てるよ
忘れないでいておくれ
簡単に捨てるよ

灰皿の上忘れられた
さっき火をつけた煙草のように
最後の言葉は煙のほのか

だからきみもぼくを簡単に捨てろよ
約束しておくれ
簡単に捨てろよ

呑み干した缶ビール
部屋の角に放り出し
簡単に捨てろよ

知らないふりをする毎日に
模様替えした部屋は黙り込むのだ
羽虫の飛ぶ音のように
愛の言葉は静かにね

ルームオーディオの音量をあげた
ルームオーディオの音量をあげた
ルームオーディオの音量をあげた