夜野いづみ

夜野いづみという歌手がいた
名前とは裏腹な艶やかな着物姿と、その歌声は敗戦後の東京を大きく元気づけたという

夜野いづみという歌手がいた
朝になると目を覚まし、昼には出掛け、夜には歌をうたい、そしてまた眠ったという

夜野いづみという歌手がいた
本を読むことが好きだった
一頁一頁じっくりと時間をかけるのが好きだった
眠くなるとグラスに半分ウイスキーを割らずに飲んだ

夜野いづみという歌手がいた
兄は土木作業員だった
齢の離れた妹は春には中学生になった
もう何年も帰っていない故郷はとても海が綺麗だった

夜野いづみという歌手がいた
三十路を手前に売れた歌は数え切れなくなったが、歌っている理由を忘れていた

夜野いづみという歌手がいた
16歳で歌い始めるまで玉置瑶子という名前だった
ドブ川に捨てたその名前を忘れぬようにノートに書いた

夜野いづみという歌手がいた
父と母の墓はなかった
二人が好きだった山間の泉に時々顔を出した

夜野いづみという歌手がいた
花がとっても嫌いだった
形も色も好きだったけど
香りがとっても嫌いだった

夜野いづみは家庭に入り
子供を三人、四年で産んだ
窓際に写真立てを置いて
孤独を隠して笑っていた

夜野いづみという歌手がいた
幸せの味をしゃぶっていた
これでいいのかと疑いながら
これでいいのだと肯定した

夜野いづみの三女は歌手に
なりたいと言い出し聞かなかった
やめとけやめとけと釘を刺すが
大きな着物をぶかぶかした

夜野いづみの旦那は特に語るような男じゃなかった
黙々と働いては眠り
黙々と働いて眠った

夜野いづみという歌手がいた
歌うこと以外知らなかった
学校で学んだことなんて
ひとつも役には立たなかった

夜野いづみという歌手がいた
愛することに臆病だった
70手前になっていまさら
歌詞を自分で書くようになった

夜野いづみという歌手がいた
時々ひどく寂しくなった
一日三箱のしんせいと
五種類の薬でやりくりした

夜野いづみの旦那は夜中に
まぶたを閉じたまま開けなかった
毛布のような人だと思った
毛布のような人だと歌った

夜野いづみは歌えなくなった
着物が似合わない白髪になった
歌う理由はとうになかったが
せめて背筋を伸ばして歌いたかった

夜野いづみの最後の夜は
マイクのいらない夜になった
伴奏も観客もない場所で
歌から最も遠い場所で

夜野いづみの三女の歌は
夜野いづみにそっくりだった
夜野いづみの長女と次女は
艶やかな着物で手を握った

夜野いづみの兄と妹は
今どこでなにをしているのか
夜野いづみの母と父は
あの泉に足を浸しているのか

夜野いづみという歌手がいた